アイデンティティの役割と可能性

 

琉球大学名誉教授 東江 平之  

 

1)はじめに

 本日,2005年6月23日,沖縄の慰霊の日に,台湾の国際政治学の研究者を迎えて,地元沖縄の研究者及び関係者が一堂に会し,交流を深めることは誠に意義深いことである。第二次世界大戦末期に,日本国内唯一の地上戦の修羅場と化した沖縄戦において,日本軍の組織的抵抗が終息したとされる日をもって慰霊の日と定められている。列強入りを目指す日本帝国の野望に振り回されるという運命を共有した台湾と沖縄にとって,共に過去に学び,在るべき未来を模索することは,意義のあることではなかろうか。

 

 1945年4月に米軍が沖縄本島に上陸し,熾烈な戦闘を展開した時,私は沖縄本島北部の山中で,鉄血勤皇隊員として,日本守備軍の一翼を担っていた。まだ未熟な,14歳の中学生であった。しかし,国の為には命を惜しまない,という覚悟はできていた。現在の私の自己像とは明らかに異質の自己像を持っていたことが分かる。戦時下の少年は,どのようにして己の自己像またはアイデンティティを形成したのだろうか。

 

 もう少し私事に立ち入ることを許して頂きたい。私は7男2女の9人きょうだいで,男7人中5人は,鉄血勤皇隊員の2人を含め,すべて戦争末期には日本陸海軍に属していた。残り2人はアメリカで生まれ,日本で教育を受け,開戦前にアメリカに戻った,いわゆる帰米2世である。日米開戦後は,敵性市民と見做され,適正な法の手続きに拠らずに収容所に送り込まれた。2人の内の一方のJは終始兵役を拒否し,終戦までの3年半余を収容所で過ごし,無一文で解放された。もう一方のYは,米国への忠誠が疑われた多くの日系人がそうしたように,アメリカ国民としてのアイデンティティを選択し,兵役に服することを受け入れた。沖縄戦序盤に,いよいよYは沖縄に派遣され,図式の上では兄弟が戦場で対峙する羽目となった。なぜこのような悲劇が生じたのだろうか。

 

2)自己概念とアイデンティティ

 一体自分は何ものだろうか。その問も,それに対する答えも,全くトリビアルなものとして受け流されることもある。しかし,人によっては,または状況によっては,それは極めて深刻なものとなることがある。幼少期,快楽に埋没した時,危険が差し迫った時,自律性を失った時などは前者であり,青年期,帰属集団が差別を受けた時,社会規範が崩壊した時,在るがままの自己が受容されない時などは後者である。またその問いが,純粋に個人の問題に止まる場合もあれば,個人から帰属集団まで広がる問題と関連する場合もある。前者では自己概念,後者ではアイデンティティの問題として論じられている。しかし,ここでは自己概念とアイデンティティを交換可能な用語として用いることにする。

 自分とは何か,と問う主体を主我,問われている対象としての自分を客我と呼ばれることがある。ここで特に取り上げるものは客我としての自己概念である。しかし,伝統的な自己概念の枠を超えなければならない理由が2つある。第1は,1970年代の情報処理理論を土台とする自己認知の研究が進むことにより,自己概念とは何か,という問題よりも,自己概念は何をするのか,というその役割に関する問題が重要になってきたことである。第2は,私たちの自己像はけっして単なる現実の反映でもなければ,歴史文化的脈絡の中で展開した適応の営みの残滓でもなく,未来に向けた行動の計画という側面を持つということである。革命とかカリスマ指導者の介入によって,斬新な目標としての民族の(または集合的)自己像が形成されるのも珍しいことではない。自由・平等という抽象的概念を旗印に国家・国民の自己像ができ上がることもある。本シンポジウムにおいて,沖縄のアイデンティティ,そして間接的には台湾のアイデンティティについて考えるにあたって,特にアイデンティティの役割と可能性に焦点を合わせるのは,上記の理由のためである。

 中村陽吉(1990年編著)は自己意識または自己知識の展開について4つの位相を認めている。①自己の姿への注目の段階,②自己の姿の把握の段階,③自己の姿への評価の段階,④自己の姿の表出の段階の4つである。①では自分のことが気になりだすことで,失敗や社会的拒否などが切っ掛けとなる場合がある。②では自分の特徴をとらえて,自分はこんな人間だ,と自己像を築き上げるのが主な仕事である。個人の次元に止まらず,日本人の性格は,とか,沖縄人の気質は,などと集合的パーソナリティの描写にまで発展することも少なくない。③では他者からの評価や自分自身の業績に対する達成感の程度によって自己を肯定したり。否定したりする。自尊感情は,対自己対応において重要であるだけでなく,対他行動の種類や範囲を決める上でも重要な役割を果たす。1960年代までは負の自己評価が顕著であった沖縄であるが,スポーツ,芸能,文学などの分野におけるめざましい活躍に加えて,農産物や沖縄のライフ・スタイルが評価され,観光や企画国際イベントが注目を浴び,基地負担の軽減が日本の重要な政治的課題の1つになるなどの諸事情を背景に,1990年代以降,正の自己評価が目立つようになった。日本復帰後30年余を経た今日,国内比較をベースとした「格差是正」の標語はもはや色褪せたものとなり,沖縄の特色を強化し,個性を伸ばそうとする発想へと軸足が移ったような印象を受けるのであるが,これは④の段階の活動が活性化されていると見るべきであろう。

 沖縄のアイデンティティを語ることによって,果たしてどこまで沖縄について語ることができるのか,という疑問は当然湧いてくるであろう。沖縄のすべてを明らかにするのではなく,その重要な一部について明らかにすることを目指すものである。

 

3)沖縄人のアイデンティティへの3つの視点

 (1) 沖縄人のアイデンティティの変容

 エリクソン,E.(1950)は精神分析学の立場から,1930年代以降流動化した欧米社会のなかで経験された異文化接触,人種差別,文化的・社会的根こぎなどをとおして生み出されていく自我の姿を捉えようとしてアイデンティティ論を打ち出した。それは極限まで追いつめられた個人または文化集団が,初めて見せる姿にスポットライトを当てたものである。古い姿が崩れ,新しい個人または集団の姿が出現していくドラマのなかから真正な自我の姿をとらえようとしたものである。沖縄の近現代史のなかにも,エリクソンの問題意識の背景と,どこか共通したものがあった。沖縄の歴史は,外からの脅威または圧力に継続的にさらされた歴史であった。1609年の島津の侵攻によって,王国の主権は著しく制限され,陰からの苛酷な支配を甘受することとなった。そのような条件下にあっても,自尊心を保ち続け,生きていることを正当化する必要があったことはいうまでもない。日本文化の受容や日琉同祖論の出現などは,島津支配下の危険な社会的環境への適応の結果と見ることができるであろう。

 明治政府による中央集権化の一貫として,1871年(明治4年)廃藩置県が断行されたが,沖縄の場合,翌72年に琉球藩が設置され,1879年(明治12年)いよいよ藩が廃止され,代わりに全国の他地域と同様県が置かれることになった。それにより,琉球は鹿児島=薩摩藩の管理を離れて,明治政府の直轄に移ることになり,外圧によってもたらされた琉球処分は完了した。島津支配下では,排除の政策が採られ,同化はきびしく抑制されたが,明治政府はそれとは対照的に,国際事情への配慮から包摂の政策が採られ,主に教育をとおして同化政策が強力に推進されるようになった。しかし,島津支配も明治政府による組み入れも,民意を度外視した,外からの強制であった点では共通している。さて,その時期に自分を日本人であると認めることができたのは,沖縄では事実上皆無に等しかった。しかし,当時は憲法も公布されておらず,国会も開設されていないので,他府県においても日本人を自認する人は少数に限られていたのではないかと推定される。

 1945年,沖縄戦の終結に伴い沖縄は再び日本から切り離され,米国の統治下に置かれるようになった。この重大な身分の変更にあたっても,県民の意向は,前の琉球処分の場合と同様,完全に不問に付された。1952年の日米講和条約においても,米国による沖縄の統治が追認され,合法化されるに止まった。沖縄戦ではほぼ3分の1の住民が犠牲となり,財産を失い,自然は破壊され,社会文化の崩壊を強いられた沖縄は,引き続き27年間,米国統治下の忘れられた状態に置かれることになった。その間,海外渡航の際は,パスポートの代わりに,米国民政府発給の身分証明書を携帯させられ,国籍欄には琉球人と明記することが求められた。日本人と自称するのは詐称に当たり,身分証明書取得の要件を欠くことになった。

 1972年5月,沖縄の施政権が日本に返還され,県民は日本国憲法の適用が受けられるようになった。すなわち,沖縄県民は法的に日本人になったのである。しかし,多くの県民の心に大きな疑念・留保が生じたのは確かである。返還の手続きに不信感をもったことも疑えない。復帰運動を支えてきた住民の要求は,その多くが受け入れられず,返還協定の締結交渉で日米両政府が求めた利益は,沖縄の求めた利益とはあまりにもかけ離れたものであったことも,沖縄側の不信を増幅し,県民のアイデンティティに影を落としたといえるのではないか。過密な米軍基地の無期限の存続も,本土平均の500倍という米軍基地密度の現実が突き付ける基地負担の不平等も,沖縄側にとっては説明のつかないものではないか。沖縄の人は日本人になっているのか,日本人と認められているのか,日本人であるのか。疑問が湧き続ける現象が,まだそこにあるのではないか。いずれにせよ沖縄は近現代においていく度も世がわりを他律的に経験させられ,日本への帰属が外圧によって繰り返し変更させられてきた。このような状況では,どのようなアイデンティティを構築すればよいのだろうか。現実との整合性を保ちつつ,自我に奉仕する自己像が果たして描けるのだろうか。

 

 (2) 沖縄人のアイデンティティの独自性

 琉球列島は温暖な風土に恵まれ,島々は広大な黒潮の海に囲まれている。このような地理的条件は,沖縄文化の基本的性格を規定している。温暖な気候風土は,ゆるやかな生活のリズムを許容し,緊張の少ない生存の営みを支えてきたものと考えられる。

 沖縄のもう一つの自然条件は,島々が広大な海に囲まれているということである。沖縄県は南北約400キロm,東西約1000キロm,面積40万平方キロmの大海原に点在する70余の島々で構成している。総面積2千平方キロm余の陸地は,そのほぼ200倍の面積の水面に囲まれていることになる。海は陸地とは異なる空間的機能をもち,人々の文化的・経済的生活に異なる影響を与えるものである。琉球列島のなかにはいくつかの文化的まとまりが見られ,言語,音楽,舞踊,習俗の統合された下位文化圏を形成しているが,海によって隔てられた島嶼間の距離によってもたらされたものであると思われる。沖縄文化の等質性ではなく,多様性を示唆するものである。1963年に小論「沖縄人の意識構造の研究」が発表された時,「宮古の人は含まれているのか」と質問を浴びせられたものである。

 上記のような自然環境のなかで育まれる人間は楽観的で,しなやかで,友好的であることが期待されるが,外部勢力によって繰り返し翻弄された近現代史のなかで形成された人間は,それとは対照的に,悲観的で,傷つき易く,引っ込み思案であることが予想される。前者は沖縄人のパーソナリティの基層をなし,後者はやや不安定な上層をなしているといえよう。

 沖縄のアイデンティティの独自性の形成に最も決定的な影響を与えたのは廃藩置県後に導入された教育であろう。1880年に発足した公教育が,教育の媒体を沖縄方言ではなく,共通語と定めたため,琉球語独自の書きことばの欠如にも助けられ,琉球語または沖縄方言は急速に衰退し,ほぼ3世代後の1960年代には母語としての継承は途絶えてしまったと推定されている。今日,新生沖縄社会は4人の芥川賞作家を輩出するまでのレベルに到達している。他方,インフォーマルに習得された沖縄方言を用いて,夥しい量の琉歌,方言コント,演劇が生産されている。沖縄で生まれ育った人はすべて共通語を使いこなせるし,方言より自由に駆使できるのに,方言へのこだわりはかなり強いものがある。琉球新報の『沖縄県民意識調査報告書』(2001年)によれば,県民の9割近くが方言への愛着を感じ,成人の95%が言語生活の何らかのレベルで方言を使用しているという。しかも,8割以上が,子どもたちに方言を使えるようになってほしい,と考えている。方言撲滅とか方言使用にペナルティとして課した方言札は,もはや完全に過去のものとなったといえよう。沖縄方言には,もはやスティグマは付いていない。

 沖縄社会で,劣勢に立たされた方言が,かくも根強く使用されるのには,それなにの理由があるに違いない。沖縄独特の習俗とか生活スタイルについては方言が有利である。表現形式としても,当意即妙の表現が方言の随所にあることも確かであろう。また,ことばが意思の伝達より,話者と聞き手の連帯を確かめる機能に比重がかけられる場合にも,方言モードが選択されるのではないか,と思われる。しかし,最も重要なものは,沖縄の人々を緩やかに包み込んでいる沖縄独自のコスモロジー,信念や行動を律するエートスではないか,と疑い始めたこの頃である。前記の調査によれば,県民の85%がウチナーンチュ(沖縄人)であることを誇りとし,9割を超える人が沖縄文化を誇りに思うとしている。沖縄料理については,全世代で9割以上が好き,としていて,50代以上では嫌いとした人は皆無であった。好きな酒も,日本酒とした人は,泡盛とした人の1割にも満たない。

 以上見てきたように,沖縄は与えられた自然条件,固有の歴史的体験,グローバルな文化の相対化などの影響を受け,独自のアイデンティティを築いてきたものである。

 

 (3)沖縄のアイデンティティの可能性

 私とは何なのか,という問いに答えるものとしてのアイデンティティは,個人または民族の過去を背負うものであると同時に,未来へ向けた行動のプランでもある。現実を無視し,過去を葬って,恣意的に自己像を描くことは許されない。現実の検証に耐えることが求められるからである。未来に背を向け,徒に追憶にふけったり,現在に幻惑されることも許されない。実りある現実への対応には,適正な選択と,準備と,集中が必要だからである。明日の自分,1年後の自分,10年後の自分を可能自己として描き上げ,より望ましい可能自己が実現できるように,望ましくない可能自己が現実のものとなることは避けることができるように戦略的に対応することが求められている。多様な可能性のなかから,自己の在るべき姿を選び,それを行動選択の基準とすることができる。18世紀後半のアメリカ独立宣言やフランス革命の理念は,未来志向のアイデンティティの役割を立派に果たし続けてきたといえるのではないか。

 今日の沖縄には,合意により形成された集合的自己像としてのアイデンティティはまだない。しかし,多くの人が共通に口にする価値観を示唆する表現はいくつかある。①生命至上主義(ぬちどぅたから)がその代表格である。語源には諸説があるが,生命の尊重を最も基本的価値判断の基準とすることを宣言したものと理解してよいのではないか。次に出会うのが②連帯(いちゃりばちょうでー)である。出会いの重要性または可能性を強調したもので,ちょっとした触れ合いでも軽んじてはいけないという戒めの意味も込められている。袖振り合うも多生の縁という慣用句とも,人の出会いを大切にするという点では重なっているが,遠因を前世の因縁と結びつける仏教的な考え方と必ずしも同様の推論はしていない点は異なる。第3についてはコンセンサスには至っていないが,寛容(ちむぐくる)と捨象できる状況倫理である。一般的規範や自己責任の原則の適用だけでは,とても受け入れがたい結果が予期される場合の,相手を最大限思いやる対処様式である。超規範的対応であって,そうすることが相手に立ち直るチャンスを与えることになるという見通しを重視はするが,前提とはしない。以上の3点はすべて対人関係志向であり,人間を大事にする基本的対応法であり,破局回避・平和志向である。これら3つのキーワードは,沖縄のアイデンティティの上層を点描するのに十分な役割を果たしているのではないかと考えられる。この上層とは,他文化との違いに焦点を合わせた時に浮かび上がる部分である。アイデンティティの基層とは,歴史のなかで絶えず進化しつつある人間社会で広く共有される価値観,理想,態度の総体である。平和主義,人権の尊重,共生と生態系の保護,多文化主義,病気・飢餓・貧困の克服,差別・強制・不平等の排除などは現代人または現代社会の基本となる価値であり,アイデンティティの基層を構成するものである。他と共有するものであっても,人間としての自己を規定するものであれば,自分のアイデンティティから排除すべき理由はない。

 他方,沖縄らしさに欠けたものは無いか,と問いかけるのも大事であろう。調査結果が利用できないので,沖縄の政治・経済・社会を観察して得た印象しか無い。自主・独立を確保するために,どこまで犠牲を払う用意があるのかが不明である。経済的価値や政治的価値には沖縄の人々は敏感であるが,自立に対して,あるいは自立が犯された事態に対して敏感であるという堨Iけが無い。このことは欧米文化と比較すると顕著である。

 林泉忠(りむ・ちゅあんてぃおん:2004年)は辺境東アジアにおけるアイデンティティについて比較研究しているが,独立すべきとしたのが台湾で66.3%,香港で28.9%であったのに対し,沖縄では18.5%で,台湾の3分の1にも満たない。同様に,独立すべきでないとしたのが台湾では19.3%であったに対し,沖縄では63.5%,香港で60.5%と,いずれも台湾の3倍以上となっている。マカオは4調査地点のなかでは,独立を求めない人が最も多く,独立を求める人が最も少なくなっていた。自分は沖縄人(または台湾人)なのか日本人(中国人)なのかの問に対しても,沖縄と台湾では対照的回答が得られた。経済的に自立する能力があるか否かが沖縄と台湾の差を生み出す要因の1つとなっていると思われるが,現に体制の内にあるか外にあるかも重要であろう。しかし,アイデンティティは結果の反映であるだけでなく,結果の原因たり得ることも忘れてはなるまい。